昭和41年10月30日 夜の御理解
御祈念をさして頂くと、本当にこのお参りをさして頂くという心。御祈念をさせて頂くという心、何々をさせて頂くという、させて頂くと言う所におかげがあると思う。させて頂くというその実感が、それはそのままがさせて頂くのですから、もう感謝の心だと思う。有難いと思う心だと思う。その心におかげ頂くんですよ。皆さんがお参りをしたと、御祈念をしたと言う所には、私は本当の事では無い。
けれどもそこん所が漠然として、はっきりお参りをさせて頂いたんだなと、御祈念させて頂きよるんだなと言う事を、感じさせて貰える、信心の情操というかね。そういうものが段々培われだんだんそれが深い、広いいわゆる濃厚なものになっていかなければいけないと私は思う。朝晩のこうして奉仕をさして頂き、昨日は今朝からも申しますように、夜の御祈念をさせて頂こうと思うておったのが、夜の御祈念を私が出来ずに、若先生が代って致しました。
今日も昼から風邪具合が悪くて、少し頭が痛みますから休まして頂いた。休まして頂く時に、どうぞ今晩の御祈念お許しを頂きますように、どうぞおかげ頂きますようにと。だから時間がきたら起こしてくれよと、こう言うてあるんだけれど。誰も起こしてくれてなかったけれど丁度目が覚めましたら、丁度御祈念の時間にゆっくり間に合う時間に、目覚ましのおかげを頂いた。それから、まだお風呂を頂いておりませんから、洗面さしてもらって、それから下へ下りていった。
それから丁度御祈念の時間になったから、御祈念さして貰ったという。そういう風にそのははぁ今日は、許されて御祈念さして頂いておるんだなと。今まで御祈念しておる、御祈念をする、私がするとこう言う様な、いやさせて頂いておると口にいいながら、矢張り自分がしておったと言った様な気がする。けれどもそのさせて頂いておると言う事でもです、御祈念をしておると言う事でもです。
よくよく考えると矢張りさせて頂いておるんですね。例えていうなら学生が勉強したい勉強したいと思う。けれどもどうも勉強する気分が乗ってこない。ですからそこに私は祈りがいると、神さまどうか勉強さして下さい。勉強さして頂きたい調子よう勉強さして頂きたいと、こういう願いとそこに気分ようお勉強が出来る時にです。はあ勉強させて頂きよるんだなあという実感が、私頂けるんじゃなかろうかとこう思う。
だからそこん所を、疎かにしてはならない。私が昨日言うならば、御祈念、夜の御祈念を許されなかった。もうさして頂こうと思うて起きた時には、もうすでに御祈念があっておる、という訳なんですから。例え皆さんがこうお参りしようと思いましてもです。何かそこに差し支えがでけたら、お参りが出来ないお参りしたい、お参りしたいと思う事もある。けれどもお参りしたいと決めておる。
例えば修業と思うて、まあ日参なら日参すると決めておっても、何とはなしに心がはずまない、心が進まないのである。それでも矢張りどうぞお願い致します、お参りさして下さいという願いをもつ所にです。私はお参りさして頂いた時に、はあ参らせて頂いておるんだなと、御祈念をさせて頂いておるんだなと、これは御祈念とか参ると言う事だけではありません。
ひとつの仕事でもそうなんです。自分の仕事を自分がするのです。けれどもそのするところには、私はその喜びが湧かない。今夜なんか私御神前に出てから、御祈念をさしてもらうのに本当にはあ許されて、許されて御祈念をさして頂いておるという喜びが心一杯に広がってくる。こう言う様な心というのは、私信心頂かなければ頂けないと思う。どうでしょうそれがどうぞ今日も御用に、お使い回しを下さい。
どうぞ私百姓のお方であるならば、百姓の御用をがどうぞ今日も一日、つつがなく御用させて下さい、と祈りぬかせて頂き、祈りながら御用さして頂いて、御用が終った時にです。はあ許されて御用さして頂いておる。もし許されなかったら頭が痛んだとか、怪我をしたとかしたいけれども、しようと思いよるけれども、出来ない結果になるでしょう。金光様の御信心は矢張り参らして頂くのであり、御祈念をさせて頂くのであり、何々をこうさせて頂くのである。
させて頂くのであるから、私そこに願いがいると思う。毎日お参りをしておる人は、もうそれが当たり前の事と思うとるけれども。ほんなら何日かお参りしたいお参りしたいと思うけれども、差し支えでお参りが出来ない時に始めてはあ参らして頂きよるんだなと、こう言う事が分かる。自分がどんなにバタバタしてもですどうにも出来ない事がある。平気で歩いて参ってきておるけれど、もしこれが足が立たなかったらどうする。
今朝から熊谷さん足が又、悪いからお参りが出来ないという。代参の方が参ってそう言われる。それこそもう十何年間朝参りを続けておられるんですから、お参りがしたいんですけれども、さあお参りがしたいけれども、足が動かんのである。二日なり三日なり例えばほんなら養生される。そして足が立つようになった、お参りされる時にその実感が又ひとしお、深かろうと私は思うんです。
自分で参りよるんじゃないんだなあと。参らして頂きよるんだなあと、いや許されて参ってきよるんだなあと。許されてこれをしているんだと、許されてそれがなされて行く所にです。私はその許して下さる方に対する、合掌の心というものが出来てくるんだと。而もそれをです、なら私共が毎日こうやって御用さして頂いとるですから。御用さして頂いとる、御用さして頂いとると、いつの間にか御用しておると言う事になって来る所に、有難さが希薄なもの、薄いものになって来ておる。
それを繰り返し繰り返し、成程お参りさせて頂いておるんだなあ、御祈念をさせて頂いておるんだなあという、その繰り返して行く内に、それが自分のものになって来る。そこに許されて御祈念をさして頂くと言う事が有り難い。許されてこれこれさして頂くと言う事が有り難い、というものが愈々本当なものになって来るのじゃなかろうかと、こう思う。するという心にはおかげはなし。させて頂くという心におかげがある。
ですからここん所の実感というものがです、本当に本当なものになってくる時にです。例えば縋らなければおられんのであり、願わなければおられんのである。どうぞ今日もどうぞ今日もこうさせて頂く事を許される事を、願わなければおられん。明日朝何時に起きろうと思うても、覚えんで寝てしもうておる。これは許されてないのである。そこに思わなければいけない、許される許されない、私は信心もそこん所が分かって来る様になると有難いと思う。
自分がきばって朝起きりよる。自分が朝きばってから、その朝参りが出来ておる。それがお参りがでけない、御祈念がでけないこうしようと思ったけれど、こうも出来ないという時にです。私は本当にそこん時にはあ今日は許されなかったと。本当にこれは許されなかったという実感が出来てくるとです。次には許される事を願わなければおられんのである。けども信心が浅いものになる。信心が有難いものに段々なってこないと、許されずに朝起きが出来ないのだけれども。
もう朝起きの出来ない事が、もう当たり前になってしまう。いわばこの楽をいうなら、はっきり言うと楽をしたい、楽をしたいと言う様な心でいわば、人間の心というものがいやが上にもずるいものになってくる。緩いものになってくる。こうなったら信心はもうおしまいです。どうぞ明日も許されてお参りが出来ます様にと。そこに許されての実感が有難しと言う事になるならです。もしそれが万一寝忘れたと言う様な事を申します。自分の不精でなら起きれなかったと言う事になります。
そういう時にです神様から許されてない。こう言う事が続きよるとです、多分この人は、許されない様になってしまうぞ。こう言う様な事でいきよるとです、動く事すら許されなくなってしまうぞと。どんなに商売にお使い廻しを頂きたい、商売繁盛のおかげを頂くと言う事を願ってもです。商売のお使い廻しを頂かなくなって、それが許されなくなってしまうぞと、言った様なものがです。
お互いの心の中に頂けるようになると信心が有り難い。それはひとつの方法じゃない、朝参りなら朝参りが出来るための方法論じゃない。事実がそうなんだ。朝起きる事をです朝五時なら五時、四時なら四時に起きる事をです許されない。そう言う事が言わば度重なりよるとです、愈々起きろうと思うても起きられない、と言った様な事になりかねんぞと言う様なです。そういう私は気持ちが必要だと思う。
神様の働きの厳しさと言った様なものを。私昨日お道の新聞見せて頂きよりましたら、あの第一番所に、信心を楽しくと言った様な見出しで、あそこを書かれるのだから、偉い先生でしょう。書いておられるすぐ下の方へ社説がついておる論説が。そこへ信心は厳しいものと言った様な見出しがついておる。対照的です。信心は楽しゅう信心は厳しいと、と言う様な事が、丁度見出しに書いてあったんですけれどもね。
楽しみと書いてある。信心生活の楽しみと書いてある。それから次の社説には、信心の厳しさと書いてある。だから信心の楽しさと厳しさと言った様なものがです。もう本当に渾然としておらなければ信心は出来ない。許されて朝のお参りが出来たという喜び。はあ今日は神様が許しなされなかった。自分が目覚ましをする事、朝の御祈念に参ると言う事をです許されなかった。
これが許され続けん様な事にでもなったら、どう言う事になるかという。そこに厳しさが必要なんだ信心は。信心はそう言う厳しさと、そう言う楽しさというものがです。渾然として一体となったものでなからなければ、信心は楽しいばかりじゃない。というてそんなら本当に、冬の寒いような、その厳しい日ばっかりが続くのでもない。厳しさと楽しさというものがです、渾然としていく信心生活。
そこには本当に許されてお参りさして頂いたという喜び。許されて御祈念をさして頂いておるという喜び。そこには御祈念中に眠気なんか来はしません。けれどそれが段々毎日お参りした、毎日当たり前御祈念をしておると、それが何かしらんあの自分が拝んでおるように思うたり、自分で参って来た様に思うたりする所には喜びが無い。そこには厳しさが欠けておるからなんだ。
信心には願う縋ると言う事、お礼を申し上げると言う事、又はお詫びを申し上げると言った様なものが内容でなからなければなりませんのですから。その願い縋り又は御礼と言った様なものが、渾然としていかなければいけんと思う。今晩夜の御祈念を、夕べ一晩お許しを頂かなかった事がです。今晩は許されて御祈念が出来ておると言う事がです。これは言葉では表現出来ません。
実を言うたら。私の心の中に有難いと感じた、これは皆さんにそれを実感をもって伝える事は出来ない。これは私でなからにゃ分からない。そういう例えば喜びを皆さんの心の中にも、段々育っていく広がっていくというおかげを頂かれたら、信心が楽しゅうなってくる。その向こうにそういうおかげを頂くためにひとつの厳しさというものも勿論、なからなければ出来んと思うですね。
どうぞ。